君に預けし心 8
「できるわけないだろ。いろいろ面倒かけたりしてるのに。お礼だって言わなきゃならないしさ、それに……」
「塁、市橋が気に入ってるのか? 俺より?」
「───はぁ?」
なにを言っているのか分からないとばかりに怪訝な顔をして見つめる塁に、北条は苦虫を噛み潰したかのようだった。
「分かった、市橋はもうおまえの前には出さない」
「えっ、どうして?」
「塁が気に入った男を俺がおまえの近くに置くと思うのか」
「ちょっ、待ってよ。さっきから気に入ったとかって、なにそれ」
塁は電話での北条の言葉が頭を掠めた。
指を一本ずつ切って…という言葉が甦り、組員である市橋にそんな惨いことはしないとは思うものの、やりかねない雰囲気が北条にはある。
「気に入ってんだろ」
「そ…れはそうだけど、亮司さんとはまったく違う意味でだから。弟みたいだと思ってるし、やっと市橋君に慣れたのに、また別の誰かなんて嫌だよ。頼むよ、亮司さんが考えてるようなことなんて微塵もないんだから」
言い募る塁は真剣だった。北条は不機嫌を隠そうともしていなかったし、万が一にも自分の知っている誰かに危害を加えられると考えることは、塁には苦痛だったのだ。
「……弟ね」
市橋には付き合っている女がいるというし、塁が北条とはまったく違うと言ったのも気分を上昇させるきっかけになった。
「いい? 絶対変な手出しはしないでよ」
緑水会会長にこんな言い方をする人間は誰もいない。
しかも塁本人は真剣なのである。
「まあ、塁がそこまで言うのならしょうがねぇ。譲歩してやるから、必要以上に市橋に近づくなよ」
「はいはい」
近づくなといわれても、用があれば近づくし、話もするだろうと塁は思っている。
その辺が北条に絶対服従で忠実である組員たちとの違いだ。それを北条も分かっているが、塁だけはそれで構わないと思っているのでそこまでは言わないでいる。
少し穏やかになった北条の気配に気付いた塁は、ほっとした気持ちで箸を持ち直して料理をつついた。
「だいたい、亮司さんは変なことを気にしすぎなんだよ」
「気にしすぎってことはないだろ」
「しすぎなんだよ。俺なんて、平凡だし別にとりえがあるわけじゃないし、いつ亮司さんが飽きても不思議じゃないよ」
「俺が飽きるのを待っているのか。だったら残念だな。そんな日はずっと来ないだろうさ。おまえは自分が思うほど平凡じゃねぇからな、面白い」
意外なことを言われたとばかりに、塁は北条をじっと見つめてしまう。その塁を見つめ返して、北条はいつものくせのある笑みを閃かせた。
「だいたい、俺とこうして二人でいてもまったく萎縮している気配がないってヤツは珍しい」
「………そうなんだ」
自覚のない塁の言葉には緊張感が抜けている。
「しかも俺の前で平気でメシを食う」
「だっておいしいし、食事に誘ってきたのはそっちだろ」
がっついていると言われているようで、塁は少々ばつが悪い。
「そういう意味じゃねぇ。俺を前にすると、喉を通らないっていうヤツが多いんだ」
「ああ、それなら分かるかも」
「分かるのか、おまえに」
「なんか威圧感とか余計なこと言うなとか近づくなオーラみたいなのを出してるからね。俺は他の人に向けられてるならそういうのにも気付くけど、自分に向けられてるとよく分からないんだ。友達には鈍感とか言われたことあるけど」
ある意味鋭い指摘をする塁に、北条は苦笑する。
こういうところなのだ、塁が他のどんな人間とも違うところは。
自然体でいて、畏れない、卑屈にならない。
もちろん二枚舌など使わないし思ったままを口にする塁には裏などない。
そして、北条亮司という男を否定しない。
やくざの北条亮司ではなく、一人の男として見ていて、やくざというのが付属品のようにてらいのないまっすぐに視線を向けてくる。
「変わってると言われたこともあるだろう」
「……何で分かるんだ?」
きょとんとした顔をした塁に微笑を誘われながら、彼が箸を運ぶさまを見ていて、やはり手放せないと思う。
塁の身体も心も手に入れてやる。
「俺から離れられると思うなよ」
凄みさえ感じさせる低く呟かれた言葉には、北条の本気がまごうことなく込められていた。
食事のあと、マンションまで送られた塁は、部屋に戻っても少しぼんやりしていた。
北条は魅力的な男なのだろう。
時折やくざっぽさが覗くが、洒脱な会話と豊富な知識、そして男っぽい美貌と堂々とした体躯、さらにセックスも強いとなれば、どんな相手でも望むがままのようで、男の敵とも言えるだろう。これで性格まで良かったら詐欺だが、そのあたり、神は公平であるらしい。
そんな強烈な印象を残す男が、自分を気に入っているというのが塁はあまり信じられなかった。
離れられると思うなよ、と北条は言った。
しかし、それは今の北条の本音かもしれないが、時間が経てばどう変わるか分からない、不確定なものであるように塁には思われた。
いつまで北条の執心が続くのか、それは分からない。
もうすぐそこにその時が来ているのか、北条の言うように離れられないのか。
(俺が考えてたって答えが出るわけじゃないんだよな……。結局亮司さんに振り回されてるんだから)
北条が塁の考えたことを知れば、塁という存在のせいだといわれたことだろうが、幸いにして今夜はいない。
その夜、簡単にパスタで夕食を取って、そろそろベッドに入ろうかというころ、同じく帰ろうとしていた市橋に携帯で連絡が入った。
「はいっ、はい……ええっ!」
驚いたような市橋の様子に、塁も緊張感を覚えて市橋を見つめている。
「は、はい……。今代わります。塁さん、杉本幹部です」
杉本は組ではそう呼ばれているのかと場違いなことに考えつつ、差し出された市橋の携帯を受け取った。
「もしもし?」
「一応、お知らせをと思いまして、夜分失礼します。会長が今ほど流れ弾を受けられまして……」
「えっ、それって……」
塁はその言葉に激しく動揺してしまった。
淡々と話す杉本の言葉はいつものようなのに、内容がそぐわない。
ひどい衝撃を受けて、喉がからからに渇いてしまったようで、声が引きつりそうだった。
「ご安心ください。会長はご無事です」
「……良かった」
安堵で身体から緊張感が抜けていくようだった。
「もともと、会長が狙われたわけではありませんので、かすり傷でした。ですが、銃創なので病院で手当てを受けているところです。念のためにこのまま入院と言うことになりますので、ご連絡をと思いまして」
「入院なんて、ひどいんですか、怪我」
「たいしたことはありません」
「でも、ホントは今にも死にそうだなんてことは……」
電話の向こうで、さすがの杉本も苦笑を洩らしたような雰囲気が伝わってくる。
思わず言ってしまった言葉だったが、不謹慎だったかもしれないと、慌てて言葉をつなぐ。
「あのっ、そんなつもりじゃなくてですね、その……」
「分かっています。………市橋に代わってください」
少し人とやり取りをしたような間があってから、市橋に代われと言われて、不承不承携帯を突き出す。
「代わってくれって」
まだ聞きたいことはあるのに代われといわれたのが面白くないと顔に書いてある。
しかし、市橋も上の命令は絶対である。拒否することなどもちろんできないから、またしゃちほこばって携帯を耳に当てた。
「はい、市橋です。はい…はい、分かりました!」
市橋は元気よく返事をすると、そのまま携帯を切ってしまった。
「あ……切っちゃった」
残念そうな塁に、市橋はくるりと振り向いた。
「塁さん、病院に行きますよ」
「え?」
「杉本幹部が、塁さんを病院に連れてきてくれって。さ、早く支度して」
「う、うん」
市橋に追い立てられるようにして部屋を出ると、もう連絡済だったようにエントランスにはいつものベンツが待っていた。市橋とともに乗り込むと、昼に別れた北条の顔がまぶたに浮かぶ。
生命力に満ちあふれていて殺しても死なないような男だったのに、こんなに簡単に傷つけられてしまうとは、思ってもいなかった。
命に別状はないようだが、どの程度の怪我なのかが結局は聞けなかったから、意識はあるのかどうなのか、心配は尽きない。
(心配……しているのか、俺は)
ヤクザで強引で人が逆らえないのをいいことに身体を奪って好きにしている男。
そう思っても、北条が塁に辛く当たったことはないし、厚遇といってもいいくらいに気を使い、塁のいいようにと考えてくれていたことを知っている。
ベッドの上でだけはあまりいうことを聞いてくれた試しはないが、それ以外では、考えてみれば驚くほど譲歩されていたのだと分かる。
送迎の黒いベンツが嫌だといえばすぐにシルバーのベンツに変わり、仕事もやめろといわれたことはあるが、辞めたくないといえばそれ以上無理強いはされなかった。
そして今、撃たれたという北条を心配しているのだ。
北条を好きになっているという事実を、認めなければならないようだった。
「塁さん、着きましたよ。すぐエレベーターに乗りますから」
「うん」
裏口から入り、すぐに入院病棟のエレベーターで上階を目指す。市橋は病室を教えられているようで、灯りの落とされている病棟を室名札を見ながら進んでいく。
奥まった特別室が、北条のベッドがある個室らしい。
廊下にいかつい男たちと杉本がいて、すぐにそれと知れた。
「杉本さん……」
「お呼びたてして申し訳ありません」
と視線だけで礼をするスマートな杉本の仕草に、こんなときでもこの人は変わらないんだな、と変なところで感心してしまう。
「会長にお会いになってください」
と、横にすべるように引いたドアの中に、塁だけを入れて、ドアは閉じた。
枕元の電気がついているので、室内は暗くはないがさほど明るくもない。静かに近づいていくと、横になって目を閉じた北条の彫りの深い顔に幾筋か髪の毛がかかっている。それを払おうと指先を伸ばした途端、その手首が掴まれた。
びくっとした塁に、にやりと不遜な笑みを見せた北条はまったくいつもの彼そのもので、そのことに塁は安心した。
「大丈夫なの?」
「ああ。左腕をかすったんだ。もともと、あれは俺じゃなく御子柴のオヤジを狙ったらしいからな。俺はとばっちりってヤツだ」
「腕だけ?」
「ああ」
「でも入院って……」
「銃創ってのは熱が出たりするんだ。そのための用心だな。明日にでも帰れるだろ」
「なんだ……びっくりした…」
いよいよ安堵して、膝が笑ってしまいそうである。あまり意識していなかったが、ここに来て北条の元気そうな姿を見るまで緊張していたのだろう。その反動で、がくりと力が抜けていくようだった。
「……塁」
北条が、塁の手首を掴んでいた手を離して彼の白い頬をなぞる。
塁の頬には安堵のために一筋の涙が零れ落ちていたのだ。
抱いたときの生理的な涙とは違い、今の涙は北条を心配してこぼしたものである。それを見て、北条が今まで見たこともないような優しい微笑を浮かべた。
塁は今までずっと、泣いたことはない。しなやかな柳のように、北条を受け入れてきた塁はこう見えて精神的に強いのだ。そんな塁の涙だからこそ価値がある。
「心配したか」
「………少し」
「少し? 塁の少しはずいぶん大仰なんだな」
揶揄されても、涙をこぼした気恥ずかしさで顔を上げられない塁には、言い返すことも出来なかった。
「俺の無事が嬉しくてほっとしたんだろ」
それを自分で言うなと思ったが、嘘ではないので、小さく頷いてしまう。
「ってことは、塁は俺を好きだってことだな」
「なんでそうなるんだ」
「どうでもいいやつのことなんて心配しないだろ。いくら博愛主義だろうが、いつも泣かない奴が涙をこぼすってことは相当だと思わねぇか」
「…………」
「認めろよ、俺が好きだって」
「………なんで俺が」
「俺は最初から言ってるじゃねぇか」
「最初? 嘘だろ、聞いたことないよ」
「気に入ったって何度も言ってただろう。俺の『気に入った』は『好き』ってのと同義語なんだよ」
「それ、今思いついたんだろう」
「んなわけあるか」
北条は機嫌がいいようだ。撃たれて、それがかすり傷とは言え機嫌がいいとは信じられない。そう思うとなんだか悔しくなってしまいそうだ。
「俺が死んだら嫌だろう」
「───うん」
「俺が怪我したら泣くんだよな」
「………」
「俺を好きだと言えよ、塁」
「好き……かな」
途端に塁の頬はかっと赤くなり、北条はだんだん機嫌がよくなってくる。
「その、かなってのはなんだ。もう一度だ」
「なんだよ、もう……。めちゃくちゃ元気で、心配して損した」
「俺が元気でよかったと思ってんだろ。ほら、いいから言えよ」
「…………好きだよっ」
投げつけるように言われた台詞が照れくささから来ていることなどお見通しの北条は、とてつもない上機嫌になった。
「俺も塁を愛してるぜ」
そう言ってぐいっと塁の頭を抱き寄せると、待ちわびたといわんばかりにいきなり深い口付けをしてきた。
「……ん…んっ…ぁ」
甘い吐息と喘ぎが自然に洩れてしまう。
「塁……おまえのすべてを俺によこせ。俺もおまえに全部預けてやる。身も心もな」
獰猛な雄の香りを撒き散らして、北条が低く告げる。もう塁に逃げる術は残されていない、それを突きつけた言葉だった。
濡れた音を立ててまたすぐに深く口付ける。
「はぁ……ん……」
しっとりと濡れた唇からは甘い蜜のような喘ぎがこぼれていく。
しかし、このまま甘い雰囲気で押し切ろうと思っていた北条の目論見通りには行かなかった。
北条が塁のシャツのボタンを外して胸を直接触った途端、塁がばっと身を起こしたのだ。
「おい」
「こんなところでこれ以上なんて、絶対にやらない」
赤い顔をして口では憎たらしいことを言う。
「冗談言うなよ」
「もちろん冗談じゃないからね」
「煽っといてそれかよ」
「煽ってなんかないよ! だいたい、明日退院するんなら、いいじゃないか」
北条の機嫌は一気に下降線をたどった。
「俺は今がいいんだ」
「俺は明日! 絶対に病院でなんかしない!」
頑固に言い張る塁に、甘いと思いつつ結局折れるのは北条の方なのだ。
「それなら明日は寝かせないからな。サービスもしてもらわないと割に合わねぇ。また会社は休み取っておくんだな」
「……え…」
「当たり前だろ。この俺に我慢させるんだからな。ったく、おまえくらいなもんだぜ」
「ちょ、ちょっと……寝かせないって嘘だろ」
焦る塁の最後の望みも粉砕する。
「今すぐヤらせてくれるんなら少しは寝かせてやってもいいぜ」
「遠慮する! じゃあ、俺帰るから!」
「おい」
慌てた子羊は、はだけたシャツをかきあわせて逃げるように病室を出て行ってしまった。
苦笑を浮かべながら、塁という収穫を得られたことで、北条の気分は良かった。今まで囲い込んではいたものの手の中にいただけだった塁を、今夜手に入れることができたのだ。
もう二度と手放すつもりはない。
「覚悟しとけよ、塁」
低く呟いた北条の本気の言葉を聞いたものは、誰もいなかった。
END
back top