君に預けし心 1
事務機販売の営業をしている加賀見塁は、今月のノルマを達成できずに少々焦っていた。
マイペースといえば聞こえはいいが、要するにおっとりしていて少し要領が悪く人がいい塁がノルマを達成できないのは今月だけに留まらない。先月も、先々月もなかなか売り上げが上がらずに、二年目に入ったのだから少しは頑張れと上司に叱責されていたのだ。
さすがにのんびりもしていられず、新規開拓を目指して飛び込み営業をかけるもののなかなか上手くはいかない。
通りがかりの目の前の近代的なビルは、一言で言えばかっこよかった。それで売り込みをかけてみようと思ったのだ。後から、このときやめておけばよかったと、何度思ったか知れない。
しかし、未来のことなど分かるはずもない塁は、目の前のビルを見上げていた。
社名が入っている渋いネームプレートは「グリーン興産」という名前が入っていて、自社ビルらしいことが分かる。清潔そうなオフィスでは、塁のようなセールスはお呼びではないかもしれないが、当たって砕けろの精神で飛び込んでみないことには始まらない。
背筋を伸ばして自動ドアを開けて、受付を目指す。
「すみません、私事務機販売業をいたしております佐藤事務機器の加賀見と申しますが、総務か庶務の方をお願いできないでしょうか」
受付嬢は、ステレオタイプの返答をした。
「失礼ですが、お約束はございますか」
「いいえ、あの……」
塁がその先を続ける前に、彼女はきっぱりと告げた。
「当社の事務用品関係は、取引先が決まっておりますので残念ですがお引取り下さい」
「そこをなんとか」
「申し訳ありませんが」
ちっとも申し訳ないような顔をしていない受付嬢は塁の顔さえ見てくれない。
「取り次いで下さるだけでいいんです。お願いします」
しかし彼女は、塁には目もくれず、その後方に向かって声をかけた。
「水島くん!」
その水島と呼ばれた男はどうやら警備員らしい。とはいえ、警備員のような格好をしているわけではない。どちらかといえば私服警官のような目つきの鋭い、体格のいい男だった。
塁の中肉中背の男など、襟首を掴まれたら浮いてしまいそうである。
「いつまでもしつこくしてたら迷惑だってわかんねぇのかよ」
ドスのきいた声でむんずと腕を掴まれる。
「あ、あのっ」
「さっさと帰んな」
「待ってください!」
今日もひとつも契約が取れないで帰るわけには行かないと、いつもの塁よりはかなり必死である。
普段ならここで諦めていたし、ここで諦めていればあの悪魔のような男には会わなくても良かったのだとは、後の祭りである。
「待てるかってんだ。もう来んなよっ」
ドアまで引きずり出され、ぽいっと投げられるように放り出されて、数段あった階段を踏み外しそうになった塁は、そのまま倒れるのを覚悟した。
(石段でコケたら痛いだろうな…)
と思って目をつむった塁に、果たしてその痛みは訪れなかった。
倒れそうだった塁の二の腕を掴んでいたのは、ダークスーツを身にまとった長身ハンサムな男だった。
中肉中背で童顔の塁とはえらい違いである。男ならこんなふうに生まれたかったと誰でも思うほど均整の取れた身体つきと精悍な顔立ちは、うらやましいというほかはない。
「あっ、すみません!」
塁は慌てて態勢を建て直して、がばっと頭を下げた。
「ありがとうございました。おかげでみっともなく転ばないですみました」
さらに礼を述べて、照れ隠しもあって笑みを浮かべるが、男からのリアクションはない。ただじっと塁の顔を見つめてくるだけである。
しかし、その鋭いまなざしは、いつまでも受けていたいものではない。
「……あの…?」
怪訝な顔をする塁とは裏腹に、男は無表情のままである。だが、ただのハンサムではない証拠に、そのきつめのまなざしが持つ力を感じさせる。まだ若そうだが、威圧感さえ感じさせるほどだ。
「どこの組のもんだ?」
突然話しかけてきたと思ったら、まったく意味不明である。声は良く響くバリトンだったが、その意味するところは分からない。
「……は?」
「違うのか」
「そいつは飛び込みのセールスです。お見苦しいところをお見せしまして……。すぐ帰らせますんで」
先ほど塁を追い出した水島という男が恐る恐るといったように告げる。大きな身体を二つに折るほど恐縮していたのが、塁には不思議だ。
しかし、男は水島の言葉を無視した。
「……なんの営業だ」
それに答えたのは塁だった。
「は、はい。事務用品の販売なので、スチール机やコピー機から、ペン1本まで取り扱っております」
それを聞くと、男は視線は塁に合わせたまま、背後にいた別の男の名を呼んだ。
「杉本」
「はい」
「会議室のテーブルだ。椅子も合わせろ」
「はい」
塁にはなんのことやら分からない。会議室がどうしたのだろうか。
「支払いは全額小切手だ。納品後に、お前が直接集金に来い」
(もしかするとこの話の方向だと……)
「うちにご注文をいただけるんですか?」
いきなりこんな展開はないだろうと思いつつ、念のために訊いてみると、男は鷹揚に頷いた。
「おまえに、な」
「あ、ありがとうございます!」
嬉しくて、思わず自然な微笑を浮かべて深くお辞儀をすると、なぜかそのハンサムな男がじっと塁を見つめていた。
「悪くねぇな」
「はい?」
「名刺は?」
「あ、申し遅れました。加賀見塁と申します」
と、スーツのうちポケットに手を入れた塁は、周りが緊張感を漂わせたのには気付かず、慌てた素振りで名刺入れから一枚を取り出した。
「ふーん。塁か」
何故苗字ではなく名前のほうを口にするのかとは思ったが、少し変わった名前だという自覚は塁にもある。
過去にも「うちの犬と同じ名前だよ」などと言われたことは一度や二度ではない。
「集金、忘れんなよ」
ハンサムな男はそう言って、屈強そうな男たちを従えて塁が追い出されたビルに入っていった。
「加賀見さん」
「あ、はい!」
塁に呼びかけたのは、先ほどの男に杉本、と呼ばれた男だった。こちらはごく普通の男に見える。
「早速だが、今の話の通り、会議室に入れるテーブルと椅子を頼みたい。うちの会議室は第一から第三まであるから、部屋を見てもらったほうがいいと思うんだが」
「そうですね。カタログも今の手持ちの分だけでも見ていただきたいですし」
「では、中へどうぞ」
それが大きく変わる運命の第一歩だということに、塁は当然のごとく気がつかなかったのだった。
階段から足を踏み外しそうだった塁を受け止めてくれたのが、グリーン興産の北条社長だと聞いた塁はびっくり仰天してしまった。あの若さで社長というだけでも驚きだったが、思えば確かに貫禄も十分で、威厳まであった。
だから勝手に納得もしていた。
そんな社長だから、いきなり会議室の机をいくつも注文できる立場なのだ。
まだ痛んでいるわけでもないミーティングテーブルや椅子を新品と取り替えるのはエコロジストでなくとももったいないと思ったが、営業マンとしてはありがたい話なので、塁は黙々と納品まで働いた。
北条社長が経営しているのはグリーン興産だけではなく、かなり忙しいらしい。
当然、グリーン興産にも毎日出社しているわけではないようで、塁があの時会えたのはある意味ラッキーだったのだと、納品時に聞いた。
当たり前といえば当たり前なくらい接点がないので、塁もそんなに忙しいという社長の北条のことはほとんど忘れていたのだ。
そして集金日。
小切手を集金に来てくれ、というのが支払い条件だったので、支払日に経理課に向かうと、少し待ってくれと言われた。そして何故か、最上階に行ってくれという。
「え、あの……こちら経理課で小切手をいただけるんじゃないんですか?」
「ええ、普通はそうなんですけどね。加賀見さんのとこの小切手だけ、社長が直接お渡ししたいそうなんです」
「……そうなんですか。分かりました」
ほかになんと言えよう。
一介の出入り業者の営業が、この大きなビルの社長に直接会いたい理由は、塁の側にはあまりない。また注文をもらえるというのならまだしも、そうそうおいしい話は転がっていないだろう。
最上階までのエレベータに乗りながら、塁はぽつんと呟いた。
「悪い話だったら嫌だなぁ」
そうは思うものの、ミーティングテーブルを数台と何十脚もの椅子だけでも数百万円になっている。それを全額小切手で支払うといってくれているのに、受け取りに行かないわけにはいかない。