君に預けし心 2
最上階にエレベータが到着すると、何故か異様に迫力のあるダークスーツの男たちが二人立っていた。
「あ……あの……」
しかし、塁がなにか言う前に、奥の扉から杉本が出てきた。ミーティングテーブルを決める際にいろいろとやり取りした顔見知りの相手がいることにほっとしてしまう。
「杉本さん……」
「加賀見さん、社長がお待ちです。こちらへどうぞ」
「はい」
通された部屋は、重厚なソファセットが置かれていて、座るのもためらうほどだった。ドア一枚を隔てて社長室があるらしく、北条はそちらの重々しい扉を開けて入ってきた。
「来たか」
相変わらずの男っぷりである。
今日もダークスーツだが、190に近い長身で嫌味にならないきわどさで着こなしているのは、その顔立ちが男らしい魅力にあふれているからだろう。細く見えるのは背が高いからで、広い肩幅はスーツを着るのに充分なほどがっしりしていた。
一瞬、見とれてしまった塁だが、すぐに本来の目的を思い出した。
「このたびは、どうもありがとうございました」
「いや」
北条は軽く言ったが、それが嫌味ではないのだから不思議だ。
「最初にあんな失礼をしてしまったのに、ご注文いただけて、本当にありがとうございます」
「ああ、塁が転びそうになったことか」
「は、はあ」
あまり、というかまったく格好悪いところを覚えられていて、照れたように笑うしかないといったところだ。しかも、名前も覚えられている。
「昼メシでも食いに行くか」
「……は?……」
「塁も来い」
「いえ、あの、集金に伺ったのですが……」
「メシのあとだ。ついてこい」
北条はもう決まったことのように廊下に向かうドアを開ける。
「早く来い。俺は待たされるのは嫌いだ」
「は、はい!」
慌てて北条のあとについていった塁は、居心地の悪いエレベータという密室で、声をかけられた。
「おい」
「はい?」
「塁はなにが好きだ?」
「は?」
「メシだよ。中華とか和食とか」
「あ、ええと。和食の方が好きですが……」
その返事を聞いたあとに、また黙り込んだ北条に、塁からは話しかけることなどできず、エレベータが一階に到着するや否や歩き出した北条の後に慌ててついていくことしか出来なかった。
(……なんなんだ、いったい)
気持ち的にはイレギュラー尽くめのこの集金に、途方に暮れそうだったが、数百万の小切手を諦めて帰るわけにはいかないのだ。
そしてエントランスを出た塁を待っていたのはシルバーのベンツでさらに運転手付き、であった。
「乗れ」
顎をしゃくってそう言われれば、従うしかない。内心では心臓がドキドキいっているくらい緊張している。
(いくら先方に誘われたからって、こっちが出さないとマズいよなぁ。いくらまでなら経費で落ちるんだろ……)
昨今は接待交際費はなるべく切り詰めるように言われていて、厳しいのだ。時にはコーヒー代くらいならお客の分も自腹を切らなければならないとぼやいていた先輩もいた。
ごく普通のランチくらいなら自腹でも仕方がないと塁は考えていた。
そして車が止まったのは、見ただけで普通の店とは違う門構えの高級料亭であった。
車を降りてすたすたと中に入っていこうとする北条に、つい塁は声をかけていた。
「社長!」
「どうした」
「……ここですか?」
「ああ、昼はあんまりやってないが、ここは旨いものを食わせるから安心しろ」
「そ…そうですか………」
旨いまずいよりも金銭面が気になる、とはいくらなんでも言えるものではない。
来てしまった以上は仕方がない。こうなったら覚悟を決めるしかないと思ったら、少しは気も軽くなった。切り替えは早い方なのだ。
当然のように馴染みらしいおかみに挨拶されて、奥まった和室に案内される。雪見障子から中庭が見える、落ち着いた部屋だった。
「料理を出してくれ」
北条の言葉に愛想良く頷いたおかみは、塁にも会釈をすると下がっていった。
当然のように、ここには北条と塁しかいない。緊張している塁を、北条は面白そうに眺めていたが、本人は気付く余裕がない。
料理はすぐに運ばれてきた。
やはりと言おうかなんと言おうか、一品ずつ運ばれてくるのは会席料理で、それでも昼だからか品数は少し少なめだった。待つのが嫌いと言っていた北条の言いつけなのか、ほとんどの料理が食べ終わったと思うころに次の料理が運ばれてくるという具合で、妙に間が空くことはなく、話の接ぎ穂が探せない塁にはありがたかった。
やがて、水菓子が出てきたころ、こんな席で無粋かとは思ったものの気にかかっていることを聞かなければズルズルになりそうで、塁は思い切って口を開いた。
「あの、社長」
しかし、北条はじろりと塁を見て、逆に質問を返してきた。
「俺の名前、知ってるか?」
「は、北条社長、ですよね」
それがどうしたのだろうか、社長と呼ぶだけでは駄目だったのだろうかと塁が内心悶々としながら言うと、北条は少しも顔の筋肉を動かすことなくこう言った。
「フルネームだ」
「…………申し訳ありません、北条社長としか聞いていませんでした」
塁をまたじろりと見遣った北条は、それに対してはなにも言わず、これだけを告げた。
「北条亮司だ」
「は、はい。よろしくお願いします」
名前を改めて聞いたことに、どんなリアクションをしていいか分からず、とりあえず律儀に頭を下げてきた塁に、北条は薄笑みを浮かべる。
「それで、北条社長」
「おい、俺は今名乗っただろ」
「はい?」
「社長じゃなくて名前で呼べ」
たまに小さい会社だと社長と呼ばれるのはなんだから、名前で、と言われることはあるが、あんなに大きな会社の社長である北条がこんなことを言い出すとは思ってもみず、それが顔に出たのだろう、北条が薄く笑った。
「おまえのツラは正直だな。裏を読む必要がなくていい」
誉められているのかけなされているのかよく分からない言葉だったが、とりあえず塁にとって大切なのはそこではない。
「では、失礼して北条さん」
「まぁ、合格じゃねぇが、最初だから仕方がないな」
他にいったいどんな呼び方があるというのだろう。塁は内心で首を傾げるが、さすがにそれを言葉に出しては聞けない。
「──このような席で失礼かとは承知していますが、集金のことなんですが……」
心配そうな顔と声音で尋ねる塁に、北条は軽く頷いた。
「ああ、これだろ」
内ポケットから無造作に額面数百万円の小切手を出し、それを塁が確認するとまたしまってしまった。
「あの……?」
「安心しろ、渡さないというんじゃない。ただな、俺はおまえが気に入った」
「……はあ」
気の抜けたような返事しか出来なかった塁にも嫌な顔をするでもなく、北条は告げた。
「おまえは正直だな」
感情がなんでも顔に出てしまうことを言ったのだが、塁は言葉どおりに受け取った。
「ありがとうございます。時々、その上にバカがつくって言われます」
「なるほど、バカ正直か。塁ならそれも悪くないだろ」
そんなところも北条には気に入った。
裏を読まなくていい、正直すぎるほどの男。
そして、思わぬ拍子に笑うと、妙にかわいいのだ。
こんな男は北条の周りにはいない。
「それで身体の方の具合はどうかと思ってな。試してみようと思ったわけだ」
「身体……を試す……ですか?」
「そうだ」
北条は立ち上がり、大股で塁のところまで来てむんずと腕を掴んで立たせた。
顔中に疑問符をくっつけているような塁に頓着せず、そのまま彼を引っ張って隣の部屋のふすまをからりと開けた。するとそこには、ついたての向こうにこれ見よがしに布団が一組、敷いてあった。
「あの、社長!」
「北条だ」
「北条さん、その、こういう手配はできないことになっていまして!」
大慌てで言い募る塁を怪訝そうに見遣る。
「じょ、女性を派遣してもらうとかですね、そういうことは一切禁止されていまして、その、接待が出来ないということでして」
「ああ、女なんていらん」
塁はあからさまにほっとした。
「ああ、そ、そうですよね。北条さんみたいな方なら、どんな人でもよりどりみどりですよね」
「女でも男でも、嫌になるくらい寄ってくるな」
「そ、そうですよね」
なにも接待などしてもらわなくても、この北条なら黙っていても女性が寄ってくるだろうと思ったのは本当だ。
しかし、それは大いなる誤解だということが、次の北条の一言で分かった。
「だが、今俺の相手をするのはおまえだ」
「………は?」
目を丸くして驚いている塁にかまわず、ずるずると腕を引いたまま寝具の上に引きずりあげる。
「あ、あのっ!」
「安心しろ、俺は上手い」
言いながら、パニックに陥っている塁のスーツを脱がしていく。
「そ、そういうことではなくっ! やめっ……」
ネクタイを緩めて引き抜き、シャツのボタンを引きちぎるように乱暴に外すと、素肌が外気にさらされる。塁は色白だが、生っ白いというほどではなく、やせすぎで骨が浮くようなこともない。
「なかなかいい眺めだな」
「じょ、冗談はやめてくださいっ」
「冗談じゃないならいいんだろ」
「そんな……っん…ぐ……」
塁の抵抗を鼻で笑うように、濃厚な口付けを仕掛けてくる。