君に預けし心 4

「そ、それってどういうことに……」
「つまり、グリーン興産は緑水会のフロント企業ということです。ほかにもいくつかあります。会長は加賀見さんを気に入っておられますので、このマンションを用意して転居させるように取り計らいました。加賀見さんの会社の方には小切手も届けてありますし、今日の欠勤も連絡済みですのでご安心を」
「は、はい」
 立て板に水式に説明されて、押しに弱い塁は頷くしかできなかった。しかも、いかにも切れ者の杉本が無表情でいると、やはり彼もヤクザなのだろうという雰囲気が漂ってくるほどには凄みがあるのだ。
 北条が気に入ったというだけで、料亭で抱かれて気を失って、さらにいきなりこんな知らないところに連れてこられてしまうのか。そう問いただせば、なにごともないように頷かれてしまいそうで、それも怖い。
「市橋」
「はいっ」
「加賀見さんのお世話をしっかりしろ」
「はいっ!」
 杉本の後ろにいたらしい、塁より若そうな男が背筋を伸ばして返事をした。
「ここにいる市橋に、なんでも言いつけてやってください」
「え、杉本さんは……」
「わたしはこれから出なければなりませんので。夜には会長もここにいらっしゃる予定です。それまではごゆっくりお休みください。では失礼します」
 杉本も忙しいのだろう。
 流れるような動作で軽く腰を折ると、それ以上の質問をさせずに玄関らしき方へと出て行ってしまった。呆然と見送っていたドアから、先ほど市橋と呼ばれた青年が手に服とバスローブを持って入ってきた。まだニキビも残っているような若い男だった。
「どっちでも好きなほうをどうぞってよ」
 杉本に対してと塁に対してとでは、自ずと態度も違うらしい。が、塁は別にかまわなかった。
「ありがとう」
 とりあえずバスローブを着て、シャワーを浴びようと立ち上がった。足の間にまだ何か挟まっているような気がして、足元が心もとなかったが、そんなことを口に出せるはずもない。
「あの、シャワー浴びたいんだけど、浴室はどこかな」
「こっちっス」
 無愛想だが、塁に対する態度を決めかねているらしい青年には悪意があるわけではないらしい。そう思えば、塁も特に思うところはなかった。
 それよりなにより、今の自分が置かれた環境を、よく考えてみる必要があった。




 シャワーを浴びたあとに、用意されていたパジャマを身につけ、まだ倦怠感の残る身体をベッドに横たえた塁は、つらつらと考え事をしている間に眠ってしまったらしい。精神的にも肉体的にも、とても疲れていたのだ。
 その塁の頬を軽くたたく指がある。
 冷たい指だった。
「おい」
「……ん…」
「寝顔もかわいいけど、起きろよ」
 なにか言われていると思った次の刹那には唇がふさがれていた。
「……んんっ!」
 息苦しくて目を開けると、焦点が合わないほど近くに男がのしかかって口付けされているのが分かる。
「やっ……なせっ!」
 両手でたくましい胸を押し上げると、それはすぐに離れていった。
「メシ食いに行くぞ」
 傍若無人に言い放ったのは、もちろん北条である。
 塁はにらみつけているつもりなのだが、赤い唇と潤んだ瞳でにらんでも逆効果だということが分かっていない。
「そんな目で見ても誘われてるのかと思うぜ」
「誘ってなんかない!」
 もう北条が社長でヤクザの会長だということも、今の塁の頭からは抜け落ちていた。北条もそんな塁を咎めるつもりはないらしい。
「それならさっさと起きて支度しろ」
「俺は行かなくていい」
「───それなら一緒に飯を食いに行くか、今から抱かれるか、好きなほうを選べ」
 剣呑なまなざしをした北条は、塁をじろりと見遣った。その効果は絶大で、塁は屈服するのも嫌だが、抱かれるのはもっと嫌だとばかりにすぐにベッドを降りた。
 素直な塁に、本気で機嫌を損ねたわけではない北条はたばこをふかしながら着替え終わるのを待った。逆に、こうして北条が待つということは、上機嫌の部類に入る。
 待つのが嫌いと公言してはばからない北条は、滅多なことでは人を待つことはしない。待たせることはあってもその逆は、ほとんどなかった。その北条がたばこ1本を吸う間とはいえ、塁を待つのだから異例である。
「行くぞ」
 まだ動きがぎくしゃくとしてしまう塁の二の腕を取って北条が歩くと、コンパスの違いからまるで引きずられるようになってしまう。
「ま、待って」
 広いリビングを抜けて玄関を出ると、ここがマンションの一室だったと分かる。それさえ知らないままに塁はずっと寝ていたのだ。
「ちんたらしてんな」
「だ、誰のせいで動けないと思ってるんだ」
 そう言われて、北条はにやりと雄の笑みを閃かせた。
「俺のせいだな」
 そのやりとりを、廊下で待機していた緑水会の若い衆は驚いて見ていた。
 緑水会の会長にタメ口をきく相手はほとんどいない。いても、緑水会の上部組織である山里組の重鎮たちくらいで、目の前の塁のような若い男ではない。
 たまに身の程を知らぬチンピラがいきがって、緑水会会長と知らずに喧嘩を売ってくるようなことがあった場合には、死んだほうがマシというくらいに痛めつけられた。
 それを知っている組員たちは、恐れを知らない塁に半ば呆れ、半ば感心して見ていた。
 しかも、塁の文句を北条が許しているのが前代未聞なのだ。
「歩けねぇなら抱き上げてやってもいいんだぜ」
「絶対に歩く!」
 子供のようにむきになっている様がまた北条の笑みを誘う。塁にそんなつもりはないのだろうが、その反応こそが楽しいのだ。
 エレベータを降りると、いかにもな黒塗りのベンツが止まっていて、有無を言わさずその中に放り込まれた。
 今になって、リアルに杉本の話を思い出してしまう。隣に悠然と座る男は、ヤクザといわれれば確かにそんな雰囲気を持っている。他を圧倒する威圧感、人の上に立つカリスマ性、そして怜悧で端正な顔立ち。
「俺の顔に見とれてんのか」
 思わずじっと見つめていた塁をそう言ってからかう北条は、急いで首を振る塁ににやりと笑った。
「正直に言ってもいいんだぜ」
 それを聞いて、塁はうっかりと別の方向で正直に口にしてしまった。
「北条さんって、本当にヤクザなんですか」
 さすがに少し驚いた顔をした北条とは裏腹に、運転席と助手席に乗った若い衆からはひっと喉に詰まったような声が聞こえた。こんなことを北条に問うてきた人間などいないし、仮にいたとしても北条の怒りを買うだけだと、この社会の人間なら知っている。
「俺に面と向かってヤクザかって聞いてきたのは塁だけだな。まぁ、ヤクザかと聞かれればそうだな」
 やはりヤクザなのか、と思った塁だったが、杉本の言ったことを駄目押しで確認したに過ぎず、目の前の北条がヤクザだから怯えるとか怖がるといった感情には直結しなかった。そんな塁の様子が見て分かったのだろう。
「おまえ、俺が怖いとは思わないのか」
「……ヤクザは怖いけど、北条さんは…微妙かな」
「微妙ってのはなんだ」
「怖いと思う前に嫌なことされたし……、だいたい、あの部屋はなんなんだ? 俺、もうびっくりして怖いどころじゃなくなったよ。あんまりいろいろあって感覚が麻痺してるのかも…」
「───そうか」
 北条はそれだけしか言わなかったが、塁との会話を楽しんでいた。
 普通は、緑水会の会長である北条とはあまり普通の会話にならない。利害が生じる相手や仕事では話もするが、それは必要だからである。舎弟たちとなると、北条は雲の上の人間であるかのようにかしずいてくるだけで、これも無論会話など成り立たない。
 だからこそ、今のような塁との会話が楽しく感じるのだ。
 塁はだまされやすいようだが馬鹿ではない。会話をしていると相手の頭の中身というのはそれなりに知れるものだ。その点、塁との会話は意外性があって飽きないし、身体の相性もいい。顔は平凡かもしれなかったが童顔で愛嬌がある。
 北条は時間が経つにつれてますます塁を気に入っていた。
「着きました」
 運転手から声がかかり、ドアを開けてもらって降りたところは、高級感あふれる中華料理店だった。個室に案内されて席に着くと、あらかじめ連絡がしてあったらしく、すぐに酒と料理が運ばれてきた。
「好きなものがあったらなんでも注文しろ」
 鷹揚に告げた北条に、塁はこう言ってみた。
「俺、アパートに帰りたいんだけど」
「駄目だ。もう退去の手続きをしたし、おまえの部屋はさっきのマンションだ」
「なんで勝手にそんなことするんだ! 俺が何したって言うんだよっ!」
 頭から駄目だと決め付けられて、自分のことを勝手に決められた悔しさが出てしまう。
「俺が塁を気に入ったからな」
「……どういう意味?」
「おまえは俺の手元に置く。俺は俺の気に入ったヤツは目の届くところに置いておきたい主義だからな」
「そんなこと、勝手に……」
「俺が気に入ったんだ。あきらめるんだな」
 恫喝でもなく、ただもう決まったことだと強い語調で言われただけだというのに、塁は彼から漂うヤクザの匂いに降伏せざるを得なかった。これ以上抵抗すると、おそらく会社や家族にも被害が及ぶようなことをほのめかすかもしれない。そんな態度だったのだ。
「…………」
 がっくりと肩を落とした塁を見ながら、北条は紹興酒をぐいっとあおる。
「おまえに不自由はさせない。欲しいものがあればなんでも言え」
 欲しいものなど思いつくわけがない。
 ただ、塁はひとつだけ言ってみることにした。
「気に入ったってことは、飽きるってこともあるわけだよな。じゃあ、北条さんが飽きたら俺のことはすぐに放り出して欲しい」
「───塁、おまえ……くくくっ」
 北条はじっと塁を見つめていたかと思うと、いきなり笑い出した。
 こんなことを言い出す塁だから、なおさら飽きることなどなさそうだが、今それを口にすることはないだろう。
「捨てないでっていう女は多かったが、捨てろっていうヤツは初めてだな」
「いいのか?」
「まあ、いいだろう」
 北条がそう告げると、塁は少しほっとしたような顔をした。おそらく、北条の気まぐれが続くあいだの我慢とでも思っているのだろう。
「食え」
 勧めると、やっと箸を取って食べ始めた。
 その様子を飲みながら見つめていた北条は、内心でおそらく塁を手放すことはないだろうと考えていた。

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