君に預けし心 5
最初はただの好奇心だけだったが、身体の具合もいいし、物怖じしない態度や意外で柔軟な思考にますます興味がわく。男女問わずただ一人の人間にここまで北条が惚れ込むことは珍しいのだが、塁の人間性がなにより面白い。
「北条さんはあんまり食べてないみたいだけど……」
「その、北条さんってのは他人行儀だな」
他人だろ、という塁の内心のツッコミを知らず、北条はいつものくせのある笑みを閃かせた。
「じゃあ、会長?」
「……おい」
「だって杉本さんがそう呼ぶって言ってたから」
「あいつらと塁は違う。おまえ、俺の名前を教えてやっただろう」
少し考えて、塁は嫌そうに眉をしかめた。
「なんだ、そのツラは」
「もしかして、亮司さんって呼べとか?」
「いいじゃねぇか。さんも取っていいぜ」
これは北条にしては破格の言葉なのだが、それを塁が知るわけもない。
「だって北条さんは俺よりずっと年上でしょう。呼び捨てなんて出来ないよ」
「ずっとって、おまえより11違うだけだろ」
「……ええっ、ってことは34歳? 40近いのかと思ってた」
「殴るぞ」
本気で驚いているらしい塁を内心微笑ましく思いながら、正反対のことを口にする。
「いえっ、貫禄があるし、会長とか言うから若く見えるだけで本当はもっと上なのかと思ってて……びっくりした」
目を丸くしたままの塁が、妙にかわいらしい。
まだ社会経験が少ない年齢とはいえ、ここまで自分を繕うことのない塁に、北条は気持ちが安らぐのを感じる。いつも裏や表を意識しなければいけない立場にあって、塁のように純粋な気持ちで接してくる人間は貴重だった。
こんな貴重な人間を、そうそう手放せるわけもない。
「じゃあ杉本さんはいくつ?」
「あいつは38だったかな」
「市橋君は?」
「……なんでそんなことを気にする」
「全体的に若いのかなと思って。……悪かった?」
組のことを訊いてはいけなかったのだろうかと塁は思ったが、北条の言いたいことは別だった。
「俺といてほかの男のことなんて気にかけるんじゃねぇよ」
「……えっ?」
「もちろん、女もだ」
「気にかけてって……」
「塁は俺だけ見てりゃいいんだ。ほかのやつのことなんか見るな」
そう言われて、なんとなく言われていることの意味は察したが、塁にはそれがひどく的外れなことのように思えた。
「……俺にどうこうしようなんて、北条さんが変わってるだけだと思うけど」
「違うだろ」
「え?」
「名前」
突きつけるように言われて、呼び方のことかと気がついた。
こんなふうに言われるということは、やはり名前のほうを呼ばなければ彼の気がすまないのだろう。内心で溜息をつきつつ、危険を回避するために妥協することを塁は選んだ。
「───亮司さん」
「それでいい」
杉本たちのことを口にしたときの不機嫌さはもう払拭され、上機嫌に戻ったらしい北条に塁はほっとする。
平凡に生きてきた塁にはヤクザとの付き合い方など分からないが、怒らせると怖そうだという認識くらいはある。早く平穏な日々が戻ることを祈りつつ、やり過ごすしかないと他人事のように考える塁だった。
一見、塁には普通の日々が戻ってきたように見えた。
が、それは上っ面だけの話である。
仕事が終わって帰るのは超がつく高級マンションで、しかも送り迎えつき。黒塗りのベンツだけは勘弁してもらって、シルバーのベンツという、変わったような変わらないような車での送迎である。
小市民な塁は送迎などいらないと断ったのだが、それが北条には面白くなかったらしく、ベッドで足腰が立たなくなるまで攻められて、翌日は電車などとても乗れない状態にさせられてしまったのだ。
それ以来、なし崩し的に送迎されているというわけである。
今日も会社から少し離れたところに止めてある車に近づくと、杉本が助手席から降りてきた。
「杉本さん……珍しいですね」
冷たいくらいの印象を与える有能な北条の右腕は、会釈して後部座席のドアを開けた。
「会長がお待ちです」
「ええっ」
恐る恐る中を覗くと、確かに北条が乗っている。
「早く乗れ」
ぐいっと腕を引っ張られて乗り込むとすぐにドアが閉まり、すべるように助手席に乗り込んできた杉本に指示されて、車は動き出した。
「待つのは嫌いって言ってたのに、もしかして待ってた?」
「三分だけな」
時間を見計らって来ていたらしい。
北条がこうして待っていたことは初めてで、いったいなんなのかと不思議に思うが、それが表情に出ていたようで、凄みのあるハンサムはわずかに口の端を上げて見せた。
「たまには塁とメシを食おうと思ってな。寿司は嫌いじゃないだろ」
「回らないやつ?」
ヤクザが回る寿司には入らないだろうとは思ったが、念のため聞いてみると北条はふっと笑った。
「当たり前だ」
塁はその返事ににっこりと笑った。
「楽しみだなぁ」
北条と付き合うことになって唯一のメリットは食事だった。
時間のないときは別なのだろうが、北条は食事に金をかけることをいとわない。いろいろなおいしい店を知っていて、しかもそれがこじんまりとした小料理屋だったり、逆に大きな料亭だったりしたが、味という点においてはすべて絶品と言っていいところばかりだった。
自分の給料ではとても入れないような敷居の高い店にも連れて行って食べさせてくれるので、それだけは良かったと思えるところである。
やくざの世話にはならないと言えるほど度胸もないし、食べ物には罪はないと、自分でも都合がいいようなことを考えて、塁は食事だけはほとんど断らなかった。それに、どうせ北条に飽きられるまでのことだとたかをくくっていたせいでもある。
しばらくして築地の寿司屋前に二人を降ろして、杉本たちは去っていった。馴染みの店らしく、奥のカウンターに通されて、塁はおいしい寿司を堪能することが出来た。
「あ~、おいしかった」
満足して店を出ると、酔客の集団とぶつかってしまった。というより、酔っている男たちが道いっぱいに広がっていたのでそうなっただけで、塁に非はない。
「コォラ、ぶつかってくんじゃねーよ!」
「……そっちがぶつかってきたのに」
独り言のような塁の台詞だったが、運の悪いことに彼らの耳に聞こえてしまったらしい。
しかも、ただ酔っているだけではなく、どうもどこかのチンピラっぽい雰囲気である。これ以上ヤクザの知り合いなど作りたくない塁は、謝った方がいいかもしれないと思い始めた。
「あんだと、このヤロー」
「優男のくせしやがって、いい気になってんじゃねーよ!」
「どつくぞ、オラ」
と言われると同時にどつかれていたが、一歩後ろに下がった塁はまた誰かにぶつかってしまった。
「あっ、すみませ…」
塁が振り向くより先に、後ろにいたはずの男が一歩前に出る。
それは北条だった。寿司屋の職人と話していたのを、塁が置いて先に店の外に出てきてしまったのだ。
北条の存在感は並みではない。しかも今は、塁がつつかれていたせいもあって、剣呑な雰囲気を撒き散らしているのだからなおさらだ。
鋭いまなざしひとつで、その場の温度が急に下がったように思うのは塁だけではなかった。
チンピラたちもぎょっとした顔で現れた北条を見ている。
「俺の連れになんか用か」
「い、いいえっ!」
男たちのうちの一人が慌てた様子で即座に答える。そうでも言わないと、なにをされるか分からない危険な香りが北条から漂ってくるのだ。
「変なちょっかいかけんじゃねぇ」
言うや否や、塁を小突いた男に蹴りを食らわし、他の酔っ払いたちも一撃で道路に沈めてしまった。路上で呻いている男たちなどもう眼中にないとばかり、北条は塁を正面から抱きすくめた。
「怪我は?」
「ないよ。助かった、ありがとう」
「いや、おまえを一人にした俺が悪い」
まさかそんなことを言い出すとは思ってもいなかったのでびっくりした塁は、その表情のまま北条を見つめた。
「どうした?」
「なんか、意外で……」
「なにが」
「俺に謝るなんて」
「いい気分で塁とメシを食った後だったから油断した」
北条が油断することなどほとんどない。
油断をするということは、それだけ隙を見せるということだ。
なんとなく気持ちを和ませてくれる塁といたことで自然に肩の力が抜けてしまったのかもしれない。
杉本が知れば驚いただろう。
だが、塁は自分に謝ったり、それを己の油断だと言う北条が、逆に人間らしくていいと思った。ヤクザの組長ではなく、北条亮司という人間として、自分の非を認められる潔さが好ましい。
「俺も、亮司さんと一緒だと思って油断した。だからお互い様ってことだね」
ほんのりと微笑んで言う塁が意外で、北条は内心驚いていた。
こんなふうに言う男は、北条の周りではいない。隙を見せればその隙に喰らいついてくるような輩ばかりだ。
しかし、塁はそれを責めもしないどころか、思いもかけないことを言い出して北条の気持ちをなだめてくれる。
「おまえ、やっぱり……」
「やっぱり、なに?」
塁が聞き返したとき、杉本を乗せた車が迎えに来た。
それに気を取られて、北条の「手放せねぇな」という低い呟きを、聞くことが出来なかった塁だった。